複雑な心境と単純明快な現実

  介護離職というのが近頃、ちょっとした社会問題になっている。親や身内の高齢者のお世話をするために、仕事を辞める問題である。

 

 でも、認知症でも発症すれば、話はそう簡単には終わらないことになる。だから、ぼくは介護離職というのは、しない方がどっちのためでもあると言いたい。

 

最初は、みんな、「親の世話くらい自分でするのが当たり前」くらいの発想で考えている。

 

でも、認知症は発症してしまうと、全くの別人になってゆく。介護をしてくれる身内が誰であるかが分からなくなるくらいなら、ただの老いの一部として受け入れられるだろう。

 

 認知症にも何種類もあって、ハムスターの種類のように、種類が違えば、別のものである。そのなかでも、治るものもいくつかあって、

 

・正常圧水頭症によるものは治る

 

とされる。手術をして、頭に溜まった髄液を抜き取ってやるのである。

 

 その反対に、もう治らないだけでなく、在宅で看ていくこと自体が無理なのもある。

 

・前頭側頭型認知症(ピック病を含む)

 

と呼ばれるもので、突然、人格が変わる。万引きをするようになったり、痴漢痴女行為をおこなったり、暴力を振るうようになる。噛みついたり、飛びかかったり、糞尿にまみれて暴れるようになる。

 

日本にも一万人は下らない数だけいるとも言われ、平均発症年齢が49歳である。

 

 この認知症になったら、家で看ていくことはまず不可能になる。はじめは、誰もがそんなことはない、と思うだろう。でも、最後には匙を投げていく。そして、この認知症のその後の生きられる時間はそんなには長くないともいう。

 

 ピック病にかぎらず、認知症が入ってくると、理性の抑えが利かなくなる。適切に関わって行かないと、目に見えて、別人に変化していく。

 

 頻尿、徘徊、異食、被害妄想、…単語を並べれば、政府の方針のように、在宅中心でも看ていけると思ってしまう。でも、

 

・2、3分おきに、トイレに行きたがる高齢者を、在宅で看きれるだろうか?

 

・物凄い力で突発的に暴力を振るう高齢者を、訪問介護で看続けられるだろうか?

 

・頭の良い認知症の高齢者の夜間徘徊を、地域ぐるみで支えられる時代だろうか?

 

自立支援という方針を公的に掲げている。しかし、認知症になっているということは、認知能力そのものが損なわれているのだから、自立した能力を活用したり、維持したりできるものではない。

 

快復したという話をよく聞く。でも、その後を聞いてみると、実は単に小康状態にそう見えただけのもの多い。

 

聞き分けがなくなり、大声で叫び出す。糞尿を垂れ流しにするようになる。昼夜逆転がどんどん酷くなる。

 

ときどき正常に戻るときがあるからといって、自分の気持ち、誠意が伝わっているんだ、などと思わない方が良いだろう。

 

 結局、わざわざ早期退職してまで看ようとした初心はついえることになる。

 

「どこか、看てくれる施設はないだろうか」

誰もがそう考えるようになる。「すべて金次第」そう言えた時代もあっただろう。でも、これからは、そうも上手くは行かなくなっていく。

 

 一昔前までは、「世の中、お金だけじゃない」と献身的に介護をしなければダメだと考えられる人たちが日本にはたくさんいただろう。

 

 ところが、長い不況にもまれ、介護している高齢者がもらっていた平均年収の5分の1や7分の1といったお金で働くしかなかった人たちぐらいしか、介護業界を選ばないかもしれない。ある意味、食いっぱぐれないための負け組の選択である。

 

・政府が付けてくれたお金も、介護職者には支払われていない

 

、これが実態としては多い。見せかけの理由を剥がせば、そんな数字が見えてもくる。そんなところで、時間帯別の職員の配置も、もっともな理由の下で、人が集まるか集まらないかで決まるのが現実のようである。

 

認知症の高齢者は夜型である

 

にも関わらず、多くの施設では、夜勤は一人であったりする。「老人であれ、誰であれ、夜は寝ているものだから、それで十分だろう」という。

 

でも、本当は逆なのである。介護職を辞めた人たちの本音を集めて歩くと、それがよくわかる。在宅で見きれなくて、施設に預けた人たちの理由の中にも、それが見えてくる。

 

誰も本心なんか言わないし、言うことも社会的に憚られている。だから、表だって取り沙汰されていないだけである。言えば、介護歴何年という古つわ者から精神主義を強要される。

 

でも負け組は職を失いたくない。だから、聞かざるを得ない。そんな闇の時代が、その業界では続いていたのだ。

 

 昼間はパートの奥さん稼業の力を借りられる。高齢者でも働ける人の力を借りられる。夜はマンパワーそのものが足りなくなる。

 

・夜になった途端、昼間とは別人格になり、異食をはじめ、徘徊しだし、暴れだす。言葉を発することができる人でも、お互いにとんちんかんだから、心に抑える力も落ちていることも手伝って、すぐに喧嘩になる。認知症同士の暴力もよく起こる。それに対して、あなたなら、一人で対応できるだろうか?

 

 長年やってきたという人は決まって、介護職員の関わり方次第だという。でも、実際はそれもあまり関係無さそうだ。なにせ、認知能力が落ちての出来事なのだから。

 

そして、その人たちは美化して話してもいる。精神主義世代でもある。すべてが理想論に走りがちだ。

 

 記憶の能力のうち、記銘だの想起だの長期記憶だの短期記憶だのという心理学の記憶とは別の側面で問題が起きてくる。

 

・ある何らかの行為をした相手が誰であるかは記銘されず、「何をされたと自分が認識したか」だけが記憶される。そして、その出来事への感情の高まりが爆発レベルに達したときに最初に見た人に襲いかかる。

 

復讐された側はたまったものではないだろうが、上司はわかってくれない。関わり方が悪いからだではねのけられる。これが殆どの離職者から収集できた内実だった。

 

 それもそのはず、あの業界の管理職は、決して判断能力が上のレベルの人たちがなっていたわけではない。時間軸をたどってみて、比較してみるとよくわかる。

 

むしろ、不況でその業界で下働きしている人たちの方が頭が良かったりする。典型的な能力の逆転が起きているのである。

 

 

 2、3分置きに誰か彼かの糞尿処理をし、施設から外へ徘徊しないように対応し、喧嘩の仲裁に入り、問題が起こらないようにケアというものを行う。

 

「うちはそんなには酷くはないですよ。皆さん、まだしっかりしておられる軽度の方ばかりですし。十分に対応は可能です」でも、人は歳をとる。重度化は自然な流れの中でも進んでいく。

 

介護職は、この他に風呂に入れ、歯を磨き、服を着替えさせ、食事やおやつの世話をする。「夜はしないだろう」という。でも、夜型は夜が生活の時間だ。

 

ストーマの交換もある。褥そうの世話もある。寝返りを打たせなければならない。喀痰吸引もする。

 

二人、三人でも、あっという間に手が足りなくなる。

 

 人は歳をとり、認知症を発症してもしなくても、段々とそんな風に世話が焼けるようになっていくものなのだ。

 

だから、それを引き受けてくれる施設があるだけまだマシなことではあるけれど、

 

離職してまで挑もうとしていることは、多かれ少なかれ、そうした将来をきちんと考えに入れておかなくちゃいけないことだ。

 

 だから、介護離職は勧めない。

 

 でも、同時に

国が掲げている自立支援とやらいうものにも疑問だ。中身がわかっているのだろうか?

 

在宅で訪問ケアを軸にした考え方も、地域ぐるみという考え方も、どれ程の意味を持つんだろう?

 

施設入りも勧めない。入れられて、幸福なんだろうか?

 

 長く一緒に生きていて欲しいのは、人として大切な情である。でも、執着は誰も幸福にはしない。

 

 われわれ自身の老後もふくめて、もう一度、きちんとどうするかを考えて置かなければならないだろう。在宅も施設も、救ってはくれない。