広場と個人
メモ
◼ネットを利用してきてイヤだったこと
・LINEは出たら入れない。余計な人を周囲から拾ってしまう。しかも無断でだ。設定なんかめんどくさい
・Twitterは広告や看板の寄せ集め。でも、フォロワーが多いと流れてしまう。だから、閲覧に漏れが出て意味がない
・Yahoo!は商業メールが知らないところから、わんさと来はじめる。情報の流出も激しいらしく、自分の過去のアカウントも売買されていた。
一番、その点、信用できないのが、Yahoo!だろう
・Googleは、余計なリンクが多すぎる。最適化されたとやら言う広告も、買ったものを何度も勧めてくる。Googleよ、お前はバカか?
おまけに仕事のクレームのやり取りをしたメールアカウントの相手との共有を勧めてくる。友人のアカウントは上がってこないのに。。
見ず知らずのTwitterのフォロワーと共有してはどうかと聞いてくる。
Googleは何においても、変に中途半端なのだ。
さらに、Android6は頼まない同期をする
2、3年くらい前、仕事で受け取った写真をギャラリーという名前からしてくせ者のフォルダに置いておいた。アラブの王様の写真である。
すると、Google+からメールが入った。⚪⚪さんとシェアしませんか?だって!
どんな理由で保管してもってるかも関係なく、なんで、そんな、見ず知らずの人と、シェアしなくちゃいけないの?
そう思った。そして、Google+のアカウントを削除した。
こんなのに、金を払わされているのか?そう思うと、選択権なんて最初からないじゃないかとも言いたくなる。
結局、iPhoneの方が使い勝手もいい。Firephoneも良かった。そんな気にもなる。
◼代替策として、当座は…
・検索エンジンは、DuckDuckGoやstartpageを使うことにした
・TwitterやLINEはなくても困るわけじゃない。むしろ邪魔なくらいに思っていたから、外してもいい
・ブラウザはSRWare IronやPale Moon、Orfoxを使ってみた。
アドブロック系でも、最近のは防げない。
DuckDuckGoや他のもそうだけれど、煩わしさは半減するかもしれない。
でも、いちばん良いのは、誰かも書いていたけれど、完全にGoogleそのものと遮断された環境を確保することなのだろう。
またiPhoneにしよう。
近頃、そんな気持ちが頭の中を泳ぎ回っている。
LINEは仕事に使えない
自分だけかと思って調べたら、けっこう同じ人がいるので、ここにも書くことにした。
LINEである。いちど、ログアウトすると、二度と元のアカウントにたどり着ける保障はない
そんなもの、職場での連絡道具に使えない
震災のときに唯一使えたなどと言っている人が多い
でも、それは別の機能の方である
5日位前に、勝手にログアウトがかかっていた。Android6である。ログインし直そうとしたら、電話認証が自動でなされたまでは良かったけれど、
そこから、ぐるぐる同じ認証画面に戻りはするものの、そのうちに電話番号が不正だの、お問い合わせセンターからは、回数に達しているから待ってもう一度トライしてみてくれだの、ということになった挙げ句に
けっきょく、入れずじまい
仕事の連絡で指定されている
しかも、遠くに居る同士の連絡だから、改めて他に連絡を取る手段もない
無料だからって、これでは、仕事に支障が来まくり
どころではない。損失である。
ところが、こういうシステムの不備にLINE からは、待てど暮らせど、一向に返事もない
世の中、ライン、ラインと盛り上がってるのは、どうでもいいけれど、
機能上の特性も考えずに、こんな不備だらけのアプリをきちんとした仕事のやりとりの媒体に使わせるな!
と誰かさんたちに言いたい
・LINEは、その手の不備が多すぎる気もする。決して、信用のおける情報のやりとり媒体とは言えないものだ
なんで、出たらもう入れないんだ
知りたいのはただのそれだけなのに、そのあと、どうすれば元の、中断しているやりとりに戻れるのか教えてほしいだけなのに、
この会社のインフォメーションはどうなってるんだ?
と思わされる。インフォメーションがダメなこの手の会社はダメなところばかりだ
自分はあそびでは使わないし、こんなもの、二度と仕事でも使わせないでほしい
❌
複雑な心境と単純明快な現実
介護離職というのが近頃、ちょっとした社会問題になっている。親や身内の高齢者のお世話をするために、仕事を辞める問題である。
でも、認知症でも発症すれば、話はそう簡単には終わらないことになる。だから、ぼくは介護離職というのは、しない方がどっちのためでもあると言いたい。
最初は、みんな、「親の世話くらい自分でするのが当たり前」くらいの発想で考えている。
でも、認知症は発症してしまうと、全くの別人になってゆく。介護をしてくれる身内が誰であるかが分からなくなるくらいなら、ただの老いの一部として受け入れられるだろう。
認知症にも何種類もあって、ハムスターの種類のように、種類が違えば、別のものである。そのなかでも、治るものもいくつかあって、
・正常圧水頭症によるものは治る
とされる。手術をして、頭に溜まった髄液を抜き取ってやるのである。
その反対に、もう治らないだけでなく、在宅で看ていくこと自体が無理なのもある。
・前頭側頭型認知症(ピック病を含む)
と呼ばれるもので、突然、人格が変わる。万引きをするようになったり、痴漢痴女行為をおこなったり、暴力を振るうようになる。噛みついたり、飛びかかったり、糞尿にまみれて暴れるようになる。
日本にも一万人は下らない数だけいるとも言われ、平均発症年齢が49歳である。
この認知症になったら、家で看ていくことはまず不可能になる。はじめは、誰もがそんなことはない、と思うだろう。でも、最後には匙を投げていく。そして、この認知症のその後の生きられる時間はそんなには長くないともいう。
ピック病にかぎらず、認知症が入ってくると、理性の抑えが利かなくなる。適切に関わって行かないと、目に見えて、別人に変化していく。
頻尿、徘徊、異食、被害妄想、…単語を並べれば、政府の方針のように、在宅中心でも看ていけると思ってしまう。でも、
・2、3分おきに、トイレに行きたがる高齢者を、在宅で看きれるだろうか?
・物凄い力で突発的に暴力を振るう高齢者を、訪問介護で看続けられるだろうか?
・頭の良い認知症の高齢者の夜間徘徊を、地域ぐるみで支えられる時代だろうか?
自立支援という方針を公的に掲げている。しかし、認知症になっているということは、認知能力そのものが損なわれているのだから、自立した能力を活用したり、維持したりできるものではない。
快復したという話をよく聞く。でも、その後を聞いてみると、実は単に小康状態にそう見えただけのもの多い。
聞き分けがなくなり、大声で叫び出す。糞尿を垂れ流しにするようになる。昼夜逆転がどんどん酷くなる。
ときどき正常に戻るときがあるからといって、自分の気持ち、誠意が伝わっているんだ、などと思わない方が良いだろう。
結局、わざわざ早期退職してまで看ようとした初心はついえることになる。
「どこか、看てくれる施設はないだろうか」
誰もがそう考えるようになる。「すべて金次第」そう言えた時代もあっただろう。でも、これからは、そうも上手くは行かなくなっていく。
一昔前までは、「世の中、お金だけじゃない」と献身的に介護をしなければダメだと考えられる人たちが日本にはたくさんいただろう。
ところが、長い不況にもまれ、介護している高齢者がもらっていた平均年収の5分の1や7分の1といったお金で働くしかなかった人たちぐらいしか、介護業界を選ばないかもしれない。ある意味、食いっぱぐれないための負け組の選択である。
・政府が付けてくれたお金も、介護職者には支払われていない
、これが実態としては多い。見せかけの理由を剥がせば、そんな数字が見えてもくる。そんなところで、時間帯別の職員の配置も、もっともな理由の下で、人が集まるか集まらないかで決まるのが現実のようである。
・認知症の高齢者は夜型である
にも関わらず、多くの施設では、夜勤は一人であったりする。「老人であれ、誰であれ、夜は寝ているものだから、それで十分だろう」という。
でも、本当は逆なのである。介護職を辞めた人たちの本音を集めて歩くと、それがよくわかる。在宅で見きれなくて、施設に預けた人たちの理由の中にも、それが見えてくる。
誰も本心なんか言わないし、言うことも社会的に憚られている。だから、表だって取り沙汰されていないだけである。言えば、介護歴何年という古つわ者から精神主義を強要される。
でも負け組は職を失いたくない。だから、聞かざるを得ない。そんな闇の時代が、その業界では続いていたのだ。
昼間はパートの奥さん稼業の力を借りられる。高齢者でも働ける人の力を借りられる。夜はマンパワーそのものが足りなくなる。
・夜になった途端、昼間とは別人格になり、異食をはじめ、徘徊しだし、暴れだす。言葉を発することができる人でも、お互いにとんちんかんだから、心に抑える力も落ちていることも手伝って、すぐに喧嘩になる。認知症同士の暴力もよく起こる。それに対して、あなたなら、一人で対応できるだろうか?
長年やってきたという人は決まって、介護職員の関わり方次第だという。でも、実際はそれもあまり関係無さそうだ。なにせ、認知能力が落ちての出来事なのだから。
そして、その人たちは美化して話してもいる。精神主義世代でもある。すべてが理想論に走りがちだ。
記憶の能力のうち、記銘だの想起だの長期記憶だの短期記憶だのという心理学の記憶とは別の側面で問題が起きてくる。
・ある何らかの行為をした相手が誰であるかは記銘されず、「何をされたと自分が認識したか」だけが記憶される。そして、その出来事への感情の高まりが爆発レベルに達したときに最初に見た人に襲いかかる。
復讐された側はたまったものではないだろうが、上司はわかってくれない。関わり方が悪いからだではねのけられる。これが殆どの離職者から収集できた内実だった。
それもそのはず、あの業界の管理職は、決して判断能力が上のレベルの人たちがなっていたわけではない。時間軸をたどってみて、比較してみるとよくわかる。
むしろ、不況でその業界で下働きしている人たちの方が頭が良かったりする。典型的な能力の逆転が起きているのである。
2、3分置きに誰か彼かの糞尿処理をし、施設から外へ徘徊しないように対応し、喧嘩の仲裁に入り、問題が起こらないようにケアというものを行う。
「うちはそんなには酷くはないですよ。皆さん、まだしっかりしておられる軽度の方ばかりですし。十分に対応は可能です」でも、人は歳をとる。重度化は自然な流れの中でも進んでいく。
介護職は、この他に風呂に入れ、歯を磨き、服を着替えさせ、食事やおやつの世話をする。「夜はしないだろう」という。でも、夜型は夜が生活の時間だ。
ストーマの交換もある。褥そうの世話もある。寝返りを打たせなければならない。喀痰吸引もする。
二人、三人でも、あっという間に手が足りなくなる。
人は歳をとり、認知症を発症してもしなくても、段々とそんな風に世話が焼けるようになっていくものなのだ。
だから、それを引き受けてくれる施設があるだけまだマシなことではあるけれど、
離職してまで挑もうとしていることは、多かれ少なかれ、そうした将来をきちんと考えに入れておかなくちゃいけないことだ。
だから、介護離職は勧めない。
でも、同時に
国が掲げている自立支援とやらいうものにも疑問だ。中身がわかっているのだろうか?
在宅で訪問ケアを軸にした考え方も、地域ぐるみという考え方も、どれ程の意味を持つんだろう?
施設入りも勧めない。入れられて、幸福なんだろうか?
長く一緒に生きていて欲しいのは、人として大切な情である。でも、執着は誰も幸福にはしない。
われわれ自身の老後もふくめて、もう一度、きちんとどうするかを考えて置かなければならないだろう。在宅も施設も、救ってはくれない。
3個の台風
猛烈に降っている
台風9号と10号、そして、途中で台風に変わったのとがやってきている
平年なら一月分に相当する量を、あっという間に超えて、降るようだ
雷がなりそうだ、と思ったら、直後にゴロゴロとなった
外は真っ暗。不安はないのに、不安な気持ちにさせられる。
こんなときに地震でもあったらどうなるんだろう
自分一人の浅知恵ではどうにもならないかもしれない
都から配られた防災に備えての冊子も、都会人の考えること
田舎育ちには、なにか感覚がちがう
下に降りられなくなる前に、お年寄り世帯は、どこかホテルの低層階か、
低層の家屋で動きがとれるところに、しばし移動しているのが良いかもしれない
今はまだそういう人たちも動きがとれる
でも、時期、そのお世話ができない人の方が多くなる
介護の現場を何人かで手分けして覗いてあるいて、介護者自体が高齢化しつつあることに不安を抱く
この人たちはまだ使命感や精神主義が通用した世代だ。だから、いざというときも、使命と道徳だけで動く
若い世代にもそれを押し付けるから、育たない
今回のオリンピックの柔道の快挙とその前の監督の結果と、これとよく似ている
後者は古代人の思考であり、バッチワーク処理型の判断の蓄積であり、前者は人格というものの発達がもっと進んでいる。
だから、やり方次第でもっと伸びもすれば、やる気を形にできなかったりもする
福祉の現場から見えてきたものにも、それがあった
精神主義世代はもう間もなく働けなくなる。でも、人手は足りていない
外国人労働者は所詮は労働力としてサービスを提供するだけだ
一握りの人間は金を出せば、人間を厳選すれば、自分のところは人材を確保できると思っている
でも金で動く人は所詮は自分のために動く人。希少な日本語が理解できる介護士など、どれほどの社会的評価を得られているだろう
糞尿と便臭との戦い、職員との理性と高齢者や精神主義世代の反理性との戦い、そんなものに進んで揉まれようなんていう若い世代は希有であろう
とある大地震のときに、ある学生たちが、見て見ぬふりをして逃げた、でもそうするしかなかったってわけでもなかった、だけど、誰もが自然とそんな気持ちにしかなれなかった、これってほんとに自分なんだな、と思った、と話してくれた。
正直で素直な青年たちだった。でも、これが正しい気持ちのあらわれなら、行動はそうなって無理もない話なのだ
理想論を突っ走って、現実論を組み上げようとしないできたんじゃないだろうか?でも、おまえは引っ込んでろ、自分たちがやるんだ、と言っていた人たちではないか?できたのか?3個の台風は、今度は社会のなかで待っていそうな気がしているのだが?
ft.
空き家と保育 メモ
http://lite-ra.com/i/2016/07/post-2436-entry_4.html
こんな記事を見つけたのだが、その通りだとしたら、少し世間を見くびった話であることである。
都内に空き家は確かに多い。でも、その空き家に住めと言われて、住みたいだろうか?と考えると、少し複雑な気持ちになる人の方が多いんじゃなかろうか。地方の空き家とは違う。
しかも、わざわざ保育をしに、空き家だったという家を改造した保育施設に、住み込みで、東京に出てこよう、という保育士はどれだけいるだろう。
東京にカジノをという発想もそうだし、この保育士に対する感覚もそうだけれど、ぼくは、そうした認識は甘い、と思う。
でも、近頃の都政は、鶴の一声でも鳩の一声でも、狸や狐の一声でも動かせるようだから、彼女の言う通りに動き出すのかもしれない。
ぼくは、これは都政だけの問題ではない、と思う。カジノのこともそうだし、これもそうだし、どうも、この方は、何でも東京集中型で、このままやっていける、とお考えのようだけれど、それは見えていない狭量な視界からの答だと、ぼくには映る。
地方との連携、国家全体のバランスのとれた国土利用と生活圏の構築という視野が必要なんじゃないか。ぼくは、そう考えるのである。
かつて、ぼくも含めた同世代が若かった頃、増田先生のレクチャーで、三都五府の構想と道州制の考えをお聞きしたときに、ぼくらの頭のなかに受け継がれた思想も、そこにあったことを思い起こす。
橋下さんが大阪も都にしよう、と頑張っておられたことも、地方を活性化させよう、と何人もの先生方が頑張っておられたのも、やはり同じ視界が開かれた認識からなのではなかっただろうか。
この問題は、都政だけからの視界で答を出して良い問題領域ではないだろう。国土全体の視野に立って、論議を尽くして当たらねばならないし、財界各界のお考えとも調整して、方向をだしてゆかなければならない問題だと、ぼくは受け止めている。
果たして、思った通りにやって、うまく収拾が着くか否か、ぼくは必ずしも支持する立場ではない。しかし、それについては、ここでは触れないでおこう。
メモ書きとして
ft.
「常識」と「公的なもの」と
http://lite.blogos.com/article/187026/
⭕国家の公的慰霊
こうした形が、今現在のところとして、もっとも順当かつ妥当なやり方だろう、と思います。
これを、
➡順次、国家的な慰霊施設で行われるものとして、国家的な慰霊施設そのものを整えてゆくことが求められるだろう
➡近隣諸国との関係も考慮に入れた上で、それぞれの国の戦没者慰霊の式典に、継続して、招待、参加し合えるような方向作りが望ましいと考える
http://www.iza.ne.jp/smp/kiji/politics/news/160815/plt16081512580029-s.html
脱・宗教施設をきちんと確立していないものは、その常識を覆してしまう➡だから❌
⬅わが国には、いまだに国家的な慰霊施設として認められたものは存在していない。
⬅そのような施設が将来的に整えられることが必要である、とぼくも考えるけれど、
⬅それは国家の施設であり、特定の宗教団体と財政上、儀式上、結び付いたものであることは常識とは言えない
あったこと
「百人斬りはなかったと認識している」と言っているけれど、その根拠を明らかに示すべきである。
自分は子供の頃、戦地帰りの将校たちが周りにいた。そのどの人たちも、それが行われていたことを裏付ける内容の発言をしている。
個人的な心の問題や主観的に信じたいというレベルの話では納得は得られない。実戦経験のあるお年寄りで、実際に人を殺戮してきた人たちがどんどん、この世にいなくなってきている。
その頃合いを見計らうかのように、自分の身内や信念を美化するような史実のすり替えを行う態度は見苦しい。
到底、支持できない意固地な発言だ。